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東京地方裁判所 平成元年(ワ)1045号 判決 1992年10月26日

原告

中島とみ子

中島忠夫

中山まさ子

右三名訴訟代理人弁護士

赤松岳

被告

医療法人鉄蕉会

右代表者理事長

亀田俊孝

右訴訟代理人弁護士

水谷昭

松本美恵子

主文

一  被告は、原告中島とみ子に対し、金一六五万円及び内金一五〇万円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告中山まさ子及び同中島忠夫に対し、各金八五万円及び各内金七五万円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告中島とみ子に対し、金一五五三万九九八八円及び内金一四一二万九九八八円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告中山まさ子及び同中島忠夫に対し、各金九四一万四九九四円及び各内金八五六万四九九四円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告中島とみ子は亡中島幸雄(以下「幸雄」という。)の妻であり、原告中島忠夫及び同中山まさ子は幸雄の子である。

被告は、住所地において亀田総合病院(以下「被告病院」という。)を開設している医療法人である。

2  人間ドック診療契約の締結

幸雄は、昭和五六年一一月二七日、同五七年一一月九日、同五八年一二月二五日及び同五九年一二月四日にそれぞれ被告との間で人間ドック診療契約を締結し、被告病院に入院した。

右人間ドック診療契約においては、被告は、幸雄の身体に各種疾患が存在しないかどうかを的確に検査し、その結果異常が認められた場合には、それが治療を要するものか否か、精密検査をする必要があるかどうか、継続して経過の観察を行う必要があるか否か等を判断し、被告に対し、必要な治療、検査、経過観察等の指導を行う義務を負う。

3  被告の債務不履行及び不法行為

(一) 幸雄は、昭和五八年及び昭和五九年の人間ドックにおいて行われた便潜血検査で、連続して陽性反応ワンプラス(+)(以下単に「(+)」と表記する。)が認められた。便潜血検査は、胃や腸などの消化管に出血を伴う疾患が存するか否かの診断のために行われるものであるから、この場合、被告としては、遅くとも昭和五九年の時点においては、大腸癌等の悪性腫瘍又は消化管潰瘍の存在を疑い、内視鏡検査等の二次検査を自ら行うか、その受診を指導すべき義務があったのにこれを怠り、幸雄に対し何らの二次検査、指導を行わなかった。

(二) 幸雄は、昭和六〇年一〇月、発熱、腹痛、食欲不振などの症状が出現したので千葉県癌センターに受診したところ、S状結腸癌と診断され、同年一一月七日同センターにおいて手術を受けたが、既に手遅れの状態となっており、昭和六三年四月一五日、転移性肝癌によって死亡した。

(三) 早期の大腸癌は完全治癒が可能な癌といわれており、幸雄は、本件人間ドックにより精密検査の機会を与えられていればほぼ確実に救命が可能であったにもかかわらず、被告の債務不履行ないしは過失により、S状結腸癌の早期発見、早期治療の機会を奪われ、手遅れとなって死亡するに至ったものであるから、幸雄の右死亡と被告の債務不履行ないしは過失との間には因果関係が存在する。

4  損害

(一) 幸雄の損害(原告らが相続により取得)

(1) 逸失利益一二二五万九九七七円

幸雄は死亡当時六三歳であり、昭和六一年度賃金センサスによる平均年収三四七万八六〇〇円、就労可能年数七年、生活費控除割合を四〇パーセントとして新ホフマン方式により中間利息を控除して計算すると、逸失利益は一二二五万九九七七円となる。

(2) 慰謝料一〇〇〇万円

幸雄は被告の不注意によりS状結腸癌の早期発見、早期治療の機会を奪われ、よって長期間の闘病の苦痛と死亡とを余儀なくされた。右苦痛を慰謝するには、一〇〇〇万円が相当である。

(二) 原告ら固有の損害

(1) 慰謝料各三〇〇万円

原告中島とみ子は最愛の伴侶を失い、原告中島忠夫、同中山まさ子は敬愛する父を失った。右苦痛を慰謝するには、各金三〇〇万円が相当である。

(2) 弁護士費用

原告らは本件訴訟提起を弁護士に依頼し、原告中島とみ子は一四一万円、原告中島忠夫及び同中山まさ子は各八五万円の弁護士費用の支払を約した。

5  よって、被告に対し、債務不履行及び不法行為に基く損害賠償請求権に基づき、原告中島とみ子は一五五三万九九八八円及び弁護士費用を除いた内金である一四一二万九九八八円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員、原告中島忠夫及び同中山まさ子は各九四一万四九九四円及び弁護士費用を除いた内金である八五六万四九九四円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  1は認める。

2  2前段のうち、昭和五六年に幸雄が被告病院に入院したこと及び人間ドック診療契約締結の月日は否認し、その余は認める。

後段は、抽象的、一般的義務としては認めるが、その注意義務の程度、範囲は傷病等の診療、治療行為と比較して低減して解すべきものである。

3  3について

(一) (一)のうち、幸雄が昭和五八年及び昭和五九年の検査において便に潜血反応(+)が認められたことは認めるが、その余は否認する。

(二) (二)のうち、幸雄が死亡したことは認めるが、その余は知らない。

(三) (三)は否認する。

4  4は争う。

三  被告の主張

1(一)  人間ドックは、傷病等に対する治療行為を前提とした検査とは異なり、健常人を対象とした健康診断であるから、疾病の早期発見という課題の他に、受診者に時間的、経済的負担をなるべくかけずに検査を行い、病気でないものを病気でないと正しく判断し、健常人に不必要な経済的、精神的負担をかけてはならないという課題を有する。そして、この両課題を実現するためにいかなる検査方法を取り、いかなる判定基準(特にカットオフ値(異常と判断しない基準値))を設定するかという点に関しては、検査を実施する病院の広い裁量に委ねられていると解すべきである。

(二)  当時便潜血検査は生化学的方法によって行われていたが、生化学的方法はヒト以外の血液にも反応してしまうため、厳格な食事制限を行わない限り異常がなくとも陽性反応が出てしまうこと(以下これを「偽陽性」という。)が多い。しかしながら、人間ドックにおいては、前記のとおり受診者に出来るだけ負担をかけないという観点から、厳格な食事制限を行うことは不可能である。

(三)  そこで、当時被告病院では、人間ドックにおける大腸癌検査は精度の高い大腸内視鏡検査によって行うこととし、便潜血検査は下部消化管のうち特に小腸からの出血の有無を調べるために行っており、大腸癌発見を目的とはしていなかった(被告病院は幸雄に対しても大腸内視鏡検査の受診を勧めたが、同人は受診しなかったものである。)。また、当時被告病院において用いられていた便潜血検査の方法は、生化学的方法のうちグアヤック法と呼ばれるもので、その試薬としてはシオノギBを用いていたところ、この検査方法は偽陽性率が高く、(+)を陽性と判断すると本来異常のない者に対し不必要な負担を強いることとなり、前記人間ドックに課せられている課題に照らし適切とは考えられなかったため、被告病院では、(+)以下を異常とは判断せず、ツープラス()(以下単に()と表記する。)以上を異常と判断する判定基準を設けていた。

(四)  以上のように、被告病院が(+)を異常と判断しない判定基準を設けていたことは、人間ドックの目的に照らし合理的なものであり、医療機関の裁量の範囲内といえるものである。そして、被告病院は、右判定基準に照らし幸雄の検査結果を異常とは判断しなかったのであるから、幸雄に精密検査等を指導しなかったことについて被告には何ら過失はない。

2  仮に、被告に何らかの過失があったとしても、昭和五九年一二月当時幸雄にS状結腸癌が存在していたか否か不明である。また、被告病院が幸雄に異常を告知し、精密検査を勧めても、同人が受診したかどうかは不明であるし、そもそも精密検査により癌が発見可能であったかどうかも不明である(大腸癌にも早期に進行するものがあり、その場合は昭和五九年一二月の時点ではまだ発見は不可能であった。)。したがって、被告の過失と幸雄の死亡との間に因果関係は存在しない。

四  被告の主張に対する原告らの反論

1  人間ドックにおいて実施される検査項目の基準は、健康保険組合連合会(以下「健保連」という。)と社団法人日本病院会(以下「日本病院会」という。)との人間ドックに関する契約によって定められており、人間ドックを実施する病院は日本病院会が指定する病院とされ、人間ドック成績の判定と指導方法については日本病院会臨床予防医学委員会によって作成された「短期人間ドック指導基準」が存在する。そして、右基準によれば、昭和五九年四月一日から便潜血検査が検査項目として追加され、その判定及び指導基準としては便の潜血反応陽性の場合は大腸X線検査を追加し、三か月後の追及を要するとされている(ここにいう便潜血検査が生化学的方法によるものであることは、免疫学的方法が普及したのが昭和六〇年代に入ってからであることから明らかである。)。

被告病院は、右指導基準に反し、独自の判断によってカットオフ値を緩めたのであるから、被告はその責任を負うというべきである。

2  一般的に大腸癌は他の癌に比べ進行が遅く、早期に進行するものは全体の五パーセントから一〇パーセント程度にすぎない。したがって、幸雄の癌は昭和五九年一二月当時には十分発見可能な程度に成長していた可能性が高く、しかもその時点で手術等の治療を施していれば、救命の可能性は一〇〇パーセントであった。また、自ら進んで四年連続人間ドックを受診していた幸雄が、医療機関から精密検査を勧められて受診しないということは考えられない。したがって、被告の過失と幸雄の死亡との間には相当因果関係がある。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(当事者)については当事者間に争いがない。

二請求原因2(人間ドック診療契約の締結)及び3(一)(被告の債務不履行及び不法行為)について判断する。

1  当事者間に争いのない事実及び証拠(<書証番号略>、証人光島徹、同中島忠一)を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  健康保険組合がその被保険者に対する保健施設として実施する人間ドックに関しては、右組合の委任を受けた健保連と各実施病院の委任を受けた日本病院会との間で人間ドックに関する契約(以下「短期人間ドック契約」ともいう。)及び人間ドック実施に関する協定が締結されており、日本病院会が指定する病院をして総合的機能検査(人間ドック)を実施させることとし、その検査項目として三七項目の実施が取り決められている。そして、便潜血検査は、昭和五〇年までは検査項目に入れられていたがその後削除され、昭和五九年四月から再び検査項目に加えられた。なお、実際には、日本病院会は実施指定病院に対し、右三七項目を含む四七項目の検査を実施するよう指導していた。

また、日本病院会臨床予防医学委員会は短期人間ドック指導規準を定め、各指定病院における検査結果の判定の統一を図っており、それによると便潜血反応(+)の場合には三か月後の追及を要すると定められている。

(二)  便潜血検査とは、便中に含まれる血液の有無を判定する検査であり、陽性反応がでれば消化管からの出血が疑われることから、消化器系の疾患の発見に有効であるとされ、昭和五八、九年頃には特に大腸癌の早期発見のための第一次的検査方法として広く普及し、一定の成果を挙げていた。ただし、早期癌が必ず出血を伴うとは限らないことから、病変が存在するにもかかわらず便潜血検査で陰性となる場合(偽陰性)があることは避けられない。

便潜血検査には生化学的方法と免疫学的方法がある。生化学的方法とは、ヘモグロビンに含まれるペルオキシダーゼに反応する試薬の呈色反応を利用して便中の血液含有の有無を判断する方法であるが、ペルオキシダーゼ活性はヒトヘモグロビンに特有のものではなく、大量の血液を含んだ食肉や、緑色の生野菜の摂取で陽性反応を呈することがあるため、偽陽性が多く特異度(異常のないものを正しく異常なしと判断する割合)が低いという欠点を有する。そのため、正確な検査結果を得るためには、検査前に厳密な食事制限を課すことが不可欠である。

一方、免疫学的方法とは、ヒトヘモグロビンにのみ反応する方法として開発されたもので、ヒトヘモグロビンに対する抗体の抗原抗体反応を利用して便中の血液成分の有無を判断する方法である。この方法によれば、ヒトの血液のみを検出することができるため、食事制限を行わなくてもヒトの血液を正確に検出でき、特異度が高いという特徴を有する。

免疫学的方法は、生化学的方法の欠点を補う方法として開発されたもので、昭和六〇年ころから急速に普及し、現在では便潜血検査は専ら免疫学的方法により行われているが、昭和五八、九年ころには、便潜血検査はすべて生化学的方法によって行われていた。

(三)  一般的な生化学的方法による便潜血検査には、試薬の違いにより、グアヤック法とオルトトリジン法の二種類がある。オルトトリジン法は、感度の高い試薬を用い、僅かな血液でも検出できるものであるが、鋭敏に過ぎるため偽陽性が多く、消化管疾患の検診用としては実用的でない。グアヤック法は、感度の低い試薬を用いたもので、消化管疾患の検診用に広く用いられていたが、その中にもシオノギBとヘモカルトⅡ(以上はいずれも製品名である。)の二種類の試薬がある。ヘモカルトⅡは、大腸癌集団検診において使用することを目的に、できるだけ感度を低くし、偽陽性率を下げるために開発された試薬で、その感度はシオノギBの約二分の一である。昭和五八、九年当時、人間ドックや集団検診において下部消化管の検査をする場合にいずれの試薬を用いるかは、実施医療機関の裁量に任されていたのが実情である。

シオノギBによる判定は、発色の程度により、(一)(全く発色のないもの)、(±)(わずかに発色していると思われるもの)、以下発色の程度に応じ(+)から()の三段階の計五段階に分けられており、(±)以上が陽性とされ、便中の血液混入が疑われるものとされる。

(四)  被告病院では、昭和五八年及び同五九年当時実施していた人間ドックにおいて、大腸癌検診として全大腸内視鏡検査を実施しており、便潜血検査は、右大腸内視鏡検査の補充的検査及び小腸からの出血の確認のための検査として行っていた。

当時、被告病院の人間ドックでは、全大腸内視鏡検査は希望者のみを対象として行われていたが、その料金は無料であり、被告病院では人間ドックの申込書と共に受診を促すパンフレットを同封するなどして、受診を促す措置を講じていた。

(五)  幸雄は、健康保険組合の被保険者として、昭和五六年一一月二七日、同五七年一一月九日、同五八年一二月二五日及び同五九年一二月四日に、それぞれ被告との間に人間ドック診療契約を締結し、各同日、被告病院に入院して一泊二日の検査を受けた。そして、昭和五八年及び同五九年に行われた人間ドックにおいて、二年連続して便潜血検査(+)の陽性反応が記録された。

ところで、当時被告病院では、人間ドックにおける便潜血検査を、グアヤック法のシオノギBを使用し、特に食事制限を課さずに行っていたが、食事制限を課さないで行った場合偽陽性率が高く、(±)及び(+)の反応が出ても病的出血である可能性が極めて低いとの独自の判断から、(±)及び(+)の反応が出ても病的出血である可能性が極めて低いとの独自の判断から、(±)及び(+)を異常とは判断せず、()以上を異常と判断する基準を設けていた。したがって、被告病院は、いずれの年度においても、幸雄に対し精密検査又は再検査を促すなどの指導は行わなかった。

(六)  幸雄が昭和五八年に被告病院に提出した人間ドック問診票には、便に血が混じったことがある旨、実父が直腸癌で死亡している旨の申告がなされていた。昭和五九年に提出されていた人間ドック問診票には、便に血が混じったことがある旨の申告はなされていなかったが、やはり実父が直腸癌で死亡していることの申告はなされていた。なお、幸雄は痔を患っており、昭和五八年度においてはその旨の申告もなされていた。

2  以上の事実に基づき、被告の過失の有無について検討する。

(一) 人間ドックは、疾病、特に癌や糖尿病といった成人病の早期発見と、適切な治療を受けさせるためのアドバイスを主たる目的として行われるものであり、受診者も当時の医療水準における適切な診断とアドバイスを期待して人間ドック診療契約を締結するのであるから、人間ドックを実施する医療機関(以下「実施医療機関」という。)としては、当時の医療水準に照らし、疾病発見に最もふさわしい検査方法を選択するとともに、疾病の兆候の有無を的確に判断して被検者に告知し、仮に異常があれば治療方法、生活における注意点等を的確に指導する義務を有するというべきである。また、人間ドックはいわゆる集団検診とは異なり、健康管理に高い関心を有する者が自発的に受診するものであり、受診者は少しでも異常を疑わせる兆候が存在する場合にはその告知を受け、精密検査を受診することを希望しているのが通常である(それが、癌の存在を疑わせる兆候であればなおさらである。)から、実施医療機関は、異常を疑わせる兆候があればこれをすべて被検者に告知し、診断が確定できない場合には精密検査あるいは再検査を受けて診断を確定するよう促す高度の注意義務を有するというべきである。

また、人間ドックにおける検査項目、検査方法及び判定基準については、健保連と日本病院会の間において短期人間ドック契約が締結され、三七の検査項目の実施を定め、さらに日本病院会が一〇の検査項目を追加した四七の検査項目で実施するよう実施指定病院に対し指導するとともに、短期人間ドック指導規準を定めて指導していたことは前記認定のとおりである。ところで、人間ドックの受診者は通常検査内容について殆ど知識を有していないうえに、検査内容について取捨、選択できず、通常実施医療機関側の決定した検査内容を一方的に受容せざるをえないのが実情であり、さらに人間ドックは長期にわたる継続的受診による健康管理を予定しており、その間には複数の医療機関における受診も予想されることを考慮すると、実施医療機関によって検査項目、検査方法及び判定基準が大幅に異なるのは好ましいことではない。そして、そのような見地から健保連は前記短期人間ドック契約を締結し、指導基準を定めて指導していたのであるから、被保険者である受診者と実施医療機関との間で締結される個別の人間ドック診療契約においても、右短期人間ドック契約及び指導基準に従った検査を行うことが当然の前提とされていたと解するべきである。したがって、合理的な理由がないのに右契約において定められた検査項目を実施せず、あるいは指導規準において定められている検査方法・判定基準を採用しないことは、原則として実施医療機関の裁量の範囲を逸脱し許されないと解するのが相当である。

なお、確かに、人間ドックは病気の自覚症状のない健常者を対象に行われるもので、しかも多くは勤労者を対象としているので、被検者にできるだけ時間的、精神的、経済的負担をかけないで実施する必要性があり、そのため、人間ドックは、全身的な検査を一日又は二日程度で行うのが通常であること等の理由から、その検査方法、検査内容において、特定の疾病発見のための検査とは異なった限界が生ずることもまたやむを得ないというべきではあるが、判定基準の選択においてはそのような要請は認められず、また、人間ドックは相当程度の費用を支払ってでも受診しようという者が自発的に受診するものであり、いわゆる集団検診のような大量処理の必要性も薄いから、費用面や効率面から生ずる限界を重視すべきではない。

(二)  ところで、前記認定のとおり、当時、便潜血検査が下部消化管からの出血の有無を診断するための検査方法として広く行われており、大腸癌の第一次的スクリーニング方法としてある程度の有効性が認められており、日本病院会も昭和五九年四月以降は人間ドックにおいて便潜血検査を消化管の疾患の検査として行うよう指導するとともに、指導基準を定めて、陽性反応(+)が出た場合には三か月後に再検査を行うよう指導していたのであるから、被告病院が実施した幸雄に対する便潜血検査において(+)の結果が出た以上、他の検査結果等によって病的出血の可能性を完全に否定できる等の特段の事情がない限り、被告には幸雄に右検査結果を告知するとともに、病的出血か否かを確定するために再検査あるいは精密検査を受診するよう促すべき義務があったものというべきであり、それを怠った被告には過失があるといわざるをえない。

(三)  これに対し、被告は、便潜血検査(+)を異常とは扱わない判定基準を設けていたのであり、かつそのような基準を設けることは実施医療機関の裁量の範囲内にあると主張する。

(1) まず、被告は、被告病院では独自の見地から大腸癌検診としては全大腸内視鏡検査(以下単に「内視鏡検査」ということがある。)を実施していたため、便潜血検査を大腸癌の主たる検査方法としていなかったことは前記認定のとおりであるが、内視鏡検査は希望者のみの受診とされており、健保連と日本病院会(ひいては各実施指定病院)との間の短期人間ドック契約においては、便潜血検査が検査項目とされていたのであるから、健康保険組合の被保険者である人間ドック受診者においては、この内視鏡検査を受診しなくとも人間ドックにおける通常の検査(最低限前記三七項目の検査)は行ってもらえるものと考えるのが通常であり(被告病院において、内視鏡検査を受診しない限り大腸の検診を受けたことにならない旨を明確に被検者に告知していたことを認めるに足りる証拠はない。)、被告としては、内視鏡検査を受診しない被検者に対しては、なお便潜血検査によって大腸癌を含む大腸疾患の検査を行うべき義務を負っていたと言うべきである。したがって、内視鏡検査を行っていたことは、便潜血検査における被告の注意義務に影響を及ぼすものではない。

(2) ところで、生化学的方法による便潜血検査の方法には感度の異なる何種類かの方法があり、グアヤック法の二種類(シオノギB及びヘモカルトⅡ)が当時人間ドックや集団検診における消化管からの出血の診断のために用いられていたが、そのいずれを用いるかについては、便潜血検査を実施する医療機関の裁量に任されていたのが実情であったことは前記認定のとおりである。そして、ヘモカルトⅡが、大腸癌集団検診を目的として、従来の方法の偽陽性率の高さを是正するために開発されたものであることを考慮すると、感度の高いシオノギBの(+)を異常と判断すると偽陽性率が高くなりすぎるとの理由から、()以上を異常と判断することにして実質的に感度を下げることとした被告病院の判定基準には、それなりの合理性が認められないではない。また、被告病院医師らの調査報告(<書証番号略>)によると、シオノギB(+)中、免疫学的方法により検査すれば陰性となるものの割合は九七パーセントを超えていることから見ても、そもそもシオノギBにおける(+)の結果は、医学的にはさほど意味を持たないということもできないではない。

しかしながら、食事制限を伴わない便潜血検査に偽陽性が多く含まれることは当時から周知の事実であり、むしろ人間ドックにおいては、食事制限を課した上での再検査あるいは精密検査によって病的出血か否かを確定することが予定されており、一般的にもそれが期待されていたというべきであるから、偽陽性である可能性が高いことは、被告病院が再検査あるいは精密検査の受診を促さなかったことを正当化する理由とはなり得ないというべきである。また、人間ドックにおいては、集団検診と異なり、精密検査に要する費用、疾病発見の効率といった要素は重視すべきでないことは前記説示のとおりであるところ、それら以外にあえて(+)を正常と判断しなければならない積極的理由は見当たらない(被告は、健常人に不必要な精神的負担をかけないという点を強調するが、人間ドックの目的からすれば疾病の存在を疑わせるものはすべて告知し、更に検査を受けるか否かの選択の機会を被検者に与えるのが望ましいと考えられるから、本件ではこの点は考慮すべきでない。)。さらに、被告病院医師らの研究結果(<書証番号略>)によれば、シオノギBによる便潜血検査(一日法)の特異度は0.76ないし0.77程度であるのに対し、感度は0.3程度であることが認められるから、必ずしも感度を犠牲にしてまで偽陽性率を下げる必要性があったとも言い切れないものがあるし、また、シオノギBよりも感度の低いヘモカルトⅡを使用することが一般に認められていたとしても、シオノギBの()以上がヘモカルトⅡの(+)以上と対応するものかどうかは、本件全証拠によっても明らかでないから、これらの点からもシオノギBの(+)を正常と判断することが正当化されるわけではない。

(3) 要するに、被告病院が(+)を異常とは判断しない基準を採用していたことは、当時人間ドックに対し一般的に期待されていた検査方法を被告病院の独自の判断で変更したものというほかはなく、医学的にはそれなりの合理性があるものとしても、それが実施医療機関の裁量の範囲内にあると認めることはできない。

3  以上のとおり、被告病院が独自の見地から、(+)を異常とは判断せず、幸雄に対し再検査あるいは精密検査の受診を促さなかったことは、少しでも異常を疑わせる兆候があればこれを被検者に告知し、再検査あるいは精密検査の受診を促すべき実施医療機関に課せられた注意義務に違反するものであるから、被告には、昭和五八年一二月及び同五九年一二月のそれぞれの時点において、実施医療機関として負うべき注意義務を怠った過失があるというべきである。

三請求原因3(三)及び4(因果関係及び損害)について判断する。

1  証拠(<書証番号略>、証人光島、同中島忠一、原告本人中山まさ子、鑑定)によれば、次の各事実が認められる。

(一)  大腸癌は限局的に発生するため、他の部位の癌に比べ一般的に予後の良い癌であるが、S状結腸癌を含む結腸癌はその中でも特に予後がよく、救命率(五年生存率)は、癌が腸壁内に限局している段階(デュークスの分類A)であれば九五パーセント以上であり、癌が腸壁を貫いて浸潤しているがリンパ節移転のない段階(デュークスの分類B)ならば八〇パーセント以上、リンパ節移転がある段階(デュークスの分類C)でも六〇パーセント以上である。

(二)  大腸癌は従来、腺腫が癌化して発生し、その発育は比較的緩徐であるものと考えられてきたが、昭和五五年頃以降、大腸癌のなかにはかなり短時間のあいだに発育して進行癌になるものがあるとの説が現れ、昭和六〇年以降は、大腸癌は必ずしも腺腫の癌化によって生ずるものではなく、平坦、陷凹型の早期癌も存在することが明らかとなった。これらの癌は腺腫から生ずる癌に比して早期に粘膜下組織に浸潤し、進行癌に発育しやすいと考えられており、その割合は従来型の遅行性の癌に比べると少ないが、近年の研究では、従来よりも多く存在する可能性が示唆されており、平成元年には早期癌の一六パーセントが平坦、陷凹型であったという医師らの報告もなされている(<書証番号略>)。

(三)  幸雄は昭和六〇年一〇月頃、下痢等の症状を訴えて親戚でもある中島忠一医師の診察を受けたが、同医師の勧めにより、同月二五日千葉県癌センターにおいてバリウム注腸X線検査を受けたところ、いわゆるリンゴ芯様兆候を呈する進行性のS状結腸癌であることが判明した。同年一一月七日に行われた手術時における癌の最大径は4.0センチメートルであったが、主病変は周囲組織に癒着していたため、執刀医は根治性なしと判断し、主病変のみを切除して手術を終えた。なお、手術標本の病理組織検査によると、癌は他臓器には浸潤しておらず、リンパ節移転もなく、周囲組織への癒着は炎症性の癒着であった。

その後、昭和六二年九月になり、癌が肝臓に転移していることが判明し、幸雄は昭和六三年四月一五日、転移性肝癌により死亡した。

2 ところで、被告の過失と幸雄の死亡との間に因果関係があるというためには、①昭和五八年一二月又は同五九年一二月の時点において、幸雄には大腸癌あるいはその前段階の腺腫等の病変が存在しており、かつその時点で治療を開始していれば救命が可能であったこと、②被告病院が幸雄に対し、精密検査あるいは再検査の受診を促していれば、幸雄はそれらを現実に受診していたであろうこと、③精密検査あるいは再検査を行えば、前記病変が発見できたこと、以上の三点が証明されなければならないというべきであるから、検討する。

(一)  前記1で認定した事実に鑑定の結果を総合すれば、幸雄の大腸癌が発育の遅いものであったか、早いものであったかによって昭和五八年及び同五九年当時における右癌の存在形態は大きく異なるところ、現在幸雄の大腸癌がそのいずれの性質のものであったかを確定する方法はなく、したがって、昭和五八年一二月又は昭和五九年一二月の時点において、幸雄に病変が存在したか、存在したとしていかなる形態で存在したかは不明というほかはない(なお、幸雄が昭和五八年一二月及び昭和五九年一二月に受けた便潜血検査において陽性反応が出ている事実は、生化学的方法による便潜血検査における偽陽性率の高さ及び幸雄が当時痔を患っていたことに鑑みると、必ずしも当時幸雄に出血を伴った癌が存在したことを示すものとはいえない。)。また、幸雄の大腸癌が発育の早いものであったとすれば、仮に病変が存在していたとしても五ミリメートル以下の平坦、陷凹型であったことが推認される。

(二)  <書証番号略>によれば、五ミリメートル以下の平坦、陷凹型の早期癌は、最近では電子スコープの導入によって発見が容易になったものの、それでも平坦、陷凹型の微小癌の存在を意識して観察しないかぎり発見は難しいことが認められるところ、前記1で認定したとおり大腸癌に腺腫を介しない平坦、陷凹型が存在することが一般的に認識されるに至ったのは、少なくとも昭和六〇年以降であるから、昭和五九年一二月の時点において存在していた癌が平坦、陷凹型であった場合には、内視鏡検査等の精密検査が実施されていたとしても癌が発見できたという保証はないといわざるを得ない(鑑定の結果によれば、五ミリメートル前後の平坦、陷凹型の早期癌を内視鏡検査によって発見するのは現在でも困難であることが窺われる。)。

また、仮に便潜血検査の再検査を実施していたとしても、生化学的方法による場合偽陽性の存在は完全には防ぎえないこと、早期大腸癌の中には出血を伴わないものも存在することから、再び陽性反応が出たかどうかは全く推測不可能である。

(三)  以上のように、本件においては、昭和五八年一二月及び同五九年一二月の各時点において、幸雄に大腸癌又はその前段階である腺腫等の病変が存在したかどうか、存在していたとしてどのような形態であり、それが内視鏡検査等によって発見可能なものであったかはいずれも不明である。したがって、前記①及び③について証明がないことになるから、その余の点について判断するまでもなく、被告の過失と幸雄の死亡との間の因果関係を認めることはできないといわざるをえない。

3  損害について

(一)  以上のとおり、被告の過失と幸雄の死亡との間に因果関係は認められないから、幸雄の死亡によって生じた損害については、被告の過失によって生じたものとは認められない。

しかしながら、幸雄は、被告と人間ドック診療契約を締結することにより、異常を疑わせる兆候があればその告知を受け、併せて適切な指導を受けることにより大腸癌を含む疾病の早期発見、早期治療の機会を得ることを期待していたというべきであり、右期待は法的保護に値するものというべきである。したがって、幸雄は、被告の過失による債務不履行によりこの期待権を侵害され、適切な指導を受ける機会を奪われることによって精神的苦痛を被ったということができる(なお、原告らの主張する幸雄の慰謝料は、右のような適切な指導を受けられなかったことによる慰謝料をも含むものと解することができる。)。

そこで、右精神的苦痛に対する慰謝料の額について検討するに、幸雄は毎年定期的に人間ドックを受診していたことから、健康管理には高い関心を有していたと見られること、四年連続被告病院の人間ドックを受診しており、被告病院に対する適切な指導の期待は大きかったものと想像されること、大腸癌はかなり進行していても完治率の高い癌であること、他方、幸雄は被告病院における人間ドックを受診するに際し、無料で大腸内視鏡検査を受診する機会がありながらこれを受診していないこと、その他本件に現れた一切の事情を総合考慮すると、その金額は三〇〇万円が相当である。

よって、原告中島とみ子はその二分の一である一五〇万円、原告中山まさ子及び同中島忠夫はそれぞれその四分の一である七五万円を相続した。

(二)  一方、前記期待権を有するのは人間ドック診療契約の当事者である幸雄に限られると解すべきであり、原告らには被告の過失と因果関係のある損害の発生を認めることはできない。

(三)  被告の過失と相当因果関係のある弁護士費用としては、原告中島とみ子については一五万円、原告中山まさ子及び同中島忠夫についてはそれぞれ一〇万円が相当である。

四結論

以上の次第であるから、原告らの請求は、被告に対し、原告中島とみ子については金一六五万円及び内金一五〇万円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による金員、原告中山まさ子及び同中山忠夫についてはそれぞれ金八五万円及び各内金七五万円に対する昭和六三年四月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による金員の支払いを求める限度で理由があるから認容し、その余はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官赤塚信雄 裁判官綿引穣 裁判官谷口安史)

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